世界は逆説で出来ている。

「生きたいように生きる」ため、「生きたいように生きる人を増やす」ためのブログ

新しいストーリーを語るための時間。

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問題そのものにフォーカスするのではなく、
新しいストーリーを語る。
 
問題ばかりにフォーカスしていれば、
問題を問題としてしかみれなくなる。
問題を潰していくことばかりに、
全てが奪われるような感覚。
 
 
一方、新しいストーリーを語ることで、
その方向へ進むことに意識が向く。
 
新しいストーリーを語るとは、
 
あっち側の話のこと。
 
 
問題を解決するというより、
世の中を見渡しながら、
自分の理想のために、必要なパーツを
ひとつひとつ、拾い集めるような感じ。
 
既に、それらのパーツはある。
 
あるんだけれど、問題ばかりに目を奪われていては、
ほとんど気づかない。
 
逆に、新しいストーリーを語りだすことで、
たとえ同じもの、同じ人をみたとしても、
見え方がガラリと変わるはず。
 
で、この新しいストーリーを語っていくことで、
問題だと思っていたことなど、いつの間にか、
解決してしまうもの。
 
もちろん、ステージが上がると、またそれ相応の
問題らしきものが見えるようになるけれど。
 
 
 
つまり、既に起こっている問題に対して、
あれこれ愚痴っていたり、不平不満を
言ったところで、どーにもならんということ。
 
恐らく、愚痴ったり、不平不満を言いたい人の周りには、
同じように愚痴や不平不満を聴いたり、言い合ったりする
のが好きな人が集まっているはず。
 
それじゃ、いつまで経っても、同じような問題で
グルグルしているだけだと思いません?
 
 
だからこそ、新しいストーリーを語る時間を
持てていないのであれば、意識して時間を確保するんです。
 
 
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どんな立派なコトバよりも、転んだ時の立ち上がり方。

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なぜ、問題、問題といっているか?
 
やっぱり、問題ってどんなに先手を打っていようとも、
何らかの形で、予期せぬ形で起こるんです。
 
もう、降ってわいたような問題が。
*何故かと言うと、あなあたに知らせるため
 
 
 
結局、
 
自分の機嫌
自分の機嫌
 
って言っているのも、
 
良い時は、機嫌なんか放っておいても良いのは当たり前なんだけれど、
豪快にすっ転んだ時に、如何に自分の機嫌を取って、立ち上がれるか?
 
結局、これに尽きるのではないかなぁと。
 
豪快にすっ転んだ時、
 
もうダメだ・・・
自分には何の打ち手も残されていない・・・
何でこんなことばかり、自分に起こるんだろう・・・
 
まぁ、大体、こんなことを思ったり、感じたりするわけで。
 
そうなってからだと、どうしても立ち直るために、
時間もかかるだろうし、そもそも八方塞がりなような
状況で何をどうしていいかも、検討がつかないようだと、
もう、本当にどうしようもないわけで・・・
 
でも、やっぱりこんなどうしようもないような状況だとしても、
そんな時こそ、自分の機嫌を取っていくしかない。
 
とはいえ、
 
豪快にすっ転んだ時に機嫌を取ろう取りしてもなかなか難しい。
 
だって、そもそも自分の機嫌を取るということを
頭で知っていたとしても、
 
それがどういうことで
どんな感覚で
何をどうしてよいか分からないから。
 
 
だからこそ、平時の時、
日々のちょっとしたことから、機嫌を取っていくトレーニングとしてやっていく。
 
やっぱり、
 
どんな立派なことを知っていたとしても、
結局、豪快にすっ転んだ時、何を支えにしていくか?
 
って、その人のその後を、大きく左右すると思うんです。
 
 
 

ドツボに、はまらないために。

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本来の自分に近づくとは、
流れに乗るとも言える。
*つまり、心地いい。
 
逆に、本来の自分から遠ざかっているのは、
流れに逆らっているとも言える。
*心地よくない
→「問題」シリーズから、問題の発生そのものが
アラームの役割をしているんで。
流れに逆らっているし、心地よくない。
 
 
ただ、楽しむ感覚を持つこと。
これが、自分の機嫌を取ることにもつながるわけで。
 
 
流れに逆らっている感覚
心地よくない感覚
 
それらを感じちゃ駄目!ではなく、
単に「そっちじゃないよ」というお知らせなだけ。
 
 
今の人生じゃダメだ
このままの流れじゃマズい、ヤバい
悩みがあって苦しくてなんとかしたい
 
 
こういう、
欠如・不足・至らない、
みたいな感情・思考から
 
何とかしなきゃ・・・・
となり、結果的に【どツボ】に
ハマっていくことになるわけです。
 
 
だからこそ、まず、整えること
 
 
このあたりの話は、恐らくどこかで聞いたこともあるでしょうし、
何となく、理解はしていることかもしれない。
 
でも、それを体感出来るかどうか?
って全く別問題で。
 
これは、「整える」ということに限った話ではないのだけれど、
やっぱりこれまでの思考パターンというのは、なかなか
変えることは難しいもの。
 
流れをガラリと変えるには、思考パターンもガラリと変える必要がある。
 
流れとは、冒頭に書いた
 
心地よい流れ(本来の自分に近づいている)
心地よくない流れ(本来の自分から遠ざかっている)
 
 
流れに乗ってしまった方が、楽。
逆流は、大変、辛い。
 
あなたの状態は、どちらですか?
 
 

深く理解するために、何度も、何度も、それは起こる。

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問題シリーズを続けます。
 
問題って、一回、片付けたとしても、
理解が浅かったりすると、
また根っこが同じような問題が起こる。
 
たとえ、表向きは、全く別の問題に見えても。
 
 
これって、繰り返しになるけれど、
本来の自分に近づくために知らせてくれている
シグナルなんですね。
 
だから、理解が浅かったりすると、
追試!苦笑
 
みたいなことが、起こるんですね。
 
何度も、何度も、形を変えて。
 
でも、
うぅぅ、自分には、やっぱり理解が出来ない。。。
 
って、悲観などしなくていいんです。
全く。
 
 
理解が出来なかったら、出来ないで、またやり直せばいいだけなんで。
 
自分のペースで進めていけばいいんです。
公文式みたいなもの?
 
子どもたちには、小学校へ上る前までは
通わせていました。
ここマレーシアでも結構、公文式の教室はありますね。
今は、通わせていません。
 
 
話を元に戻しますと、
 
理解が出来なかったら、出来ないなりに、
もっと視点を変えることを意識してみるとか、
そこから工夫が生まれるんです。
 
解決策を一生懸命に探すよりも、先に。
 
どうしても、問題が起こると、解決策を!
ってなりがちなんです。
 
だ・か・ら・こ・そ
なんです!
 
 
問題を提示されたら、
 
如何に、
早く
正確に
 
コタエ・解決策を出すか?
 
そんなことは、がっこーのお勉強思考
テストだけでいいんです。
 
この
 
問題
解決策
 
ってセットだという思い込み自体が、
結構な割合でブレーキをかけてしまっている
状態になっていると思うんです。
 
色んな方々をみていると。
 
 
そもそも、
問題に対する解決策だって、
自分自身の視点がガラリと変わらない限り、
これまで通りの解決策しが思いつかないし、
目に入ってこない。
 
だからこそ、同じような問題が、
そこで起こり続ける。
 
自分の捉え方をガラリと変えてしまえば、
それまでとは全く異なった解決策だって
サクッとひらめいたり、誰かがもたらしてくれたりするもの。
 
ここなんですね。
ポイントは。
 
 
解決策を外に求めるコト自体も、
同じことですよ。
 
結局、外に求めることをすれば、
今後も、外に求め続けることになるわけで。
 
ホントは、内に求める必要があるんですね。
 
 
このあたりの話って、
 
「整える」ってことに繋がるのですが、
ちょっと長くなったので、次回に。
 
 
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本来の自分に

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問題が起こったときって、どうしても何かのせいにしがち。
 
こんにゃろめ!
って。苦笑
 
 
でも、前回からの話しの続きでいうと、
問題は、本来の自分に近づくためのもので、
決して避けるものではなく、むしろ
真正面から直視して、何を切り取っていくか?
 
 
ちょっと、
 
俯瞰した
引いた目
から問題をみてみることで、
これまでになかった感覚を
覚えることが出来るはず。
 
 
このこれまでにない感覚を覚えることこそが、
いわゆる成長のひとつ。
 
 
これまでだったら、
 
こんにゃろめ!
って、他の人のせいにしたり、
景気のせいにしたり、
はたまた、天気のせいにしたり苦笑
 
と、何かのせいにしてたいかもしれない。
 
これを、何かのせいにすることをせずに、
自分自身で捉え方をガラリと変えてみる。
 
ただ、勘違いをして頂きたくないのは、
何かのせいにしない=自分を責める
 
では決してないということ。
 
 
こんにゃろめ!にしても、
自分を責めるにしろ、
 
どちらにしても、機嫌は良くないですよね?
 
こんにゃろめ!って思っているうちには、
怒りパワー全開だし、
恨み全開だし
 
 
 
自分を責めるのだって、
「あぁ、やっぱり自分はだめだ」
「何で、こんなことばかり自分に起きるんだ」
 
結局、機嫌の良いポイントをみつけていく過程では、
どちらも具合が良くないわけです。
*自分の機嫌をとることは、
大大大前提!
 
現実は、内面の結果なので、
他のせいにしたり
自分を責めたりしたところで、
いずれにしたって、
思うような現実にはならないはず。
 
 
だからこそ、問題が起きたら起きたで、
どう捉えて、問題と向き合っていくか?
 
がある意味、試されているわけです。
 
もちろん、起きる問題って、
余裕のよっちゃんでこなせるような問題って
ほとんど起こることはなく・・・
 
大体が、
 
「うわ・・・マジか・・・」
 
という問題なんですよ。
 
 
ただ、この
「うわ・・・マジか・・・」
 
って思っちゃいけない、感じちゃいけないってわけじゃなく、
いいんです。
思ったり、感じたりしても。
 
キッツいなぁ・・・
と痛感するようなギリギリのラインを
攻めてくるものなので。
 
だからこそ、本気で何かを感じ取ろう、
何かを抜本的に変えようという
気が起こるともいえる。
 
何も起こらない、平時であったら、
そんな気も起きないはず。
 
 
だからこそ、
 
問題ありがとう!
 
なんですよ。
 
 

問題が教えてくれる。

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問題=避けるべきもの
問題=起こらない方がいいもの
問題=嫌なもの
 
こんな定義を、ほとんどの方々が持っているかもしれない。
 
 
でも、一方で、「問題」ってギフトだよね。
みたいな、ことを言う人もいて。
 
 
問題は、ただのシグナルで、 
何のためのシグナルか?
というと、、、
 
本来の自分に近づくためのシグナル。
 
 
人生の8割だか9割だかは、
問題解決に費やされている
 
みたいなことを言われているけれど、
もちろん問題の定義にもよるけれど、
ほぼほぼ、人は何らかの問題を解決
するために、日々、活動をしているとも言える。
 
 
そんな、日常的な問題。
降ってわいたような問題。
 
色んな、諸々の問題をひっくるめて、
結局、どんな捉え方をしていくか?
→人生は定義付けできまるんで。
 
 
なので、問題についてご相談なんかを頂いた時は、
まず問題の捉え方から入る。
 
そもそも、それは問題なのか?
その問題は、あなたに対して
何のシグナルを送っているのか?
*と、同時に、そもそも「どう在りたいのか?」
 
 
そして、そのシグナルから、
何を
どのように
考えて、進めていけばいいか?
 
 
解決策、ドンっ!
みたいなことをどうしても人は追い求めがち
だけれど、このパターンがしみついてしまっているからこそ、
ちょっと視点をずらした方がいいと思うんです。
 
問題が起きた!
解決しなきゃ!
 
というのが、通常運転のパターン。
 
だけではなく、
 
問題が起きた!
*ちょっと、待てよ・・・ここで一呼吸!!
何かのシグナルだ!自分に近づくためのチャンスだ!
どう問題に向かっていこうか?
 
こんなパターンでもありだと思うんです。
 
 
問題が起きたら、とりあえず検索して、
解決策らしきもの、コタエらしきもの
を探してしまいがちだけれど、
そんなパターンでどうにかなるうちは、
まだ良いと思う。
 
でも、そんなんじゃ解決出来ない問題だって、
降り掛かってくる。
 
それは、自分自身のステージが上がれば、
上がるほど、適した問題が
 
ホイッと
目の前に現れるから。
 
何のために?
 
もっと、本来の自分に近づくために、
視点をガラリと変える必要があるからこそ、
問題が起きる。
 
 
こんな感じで、視点をずらしていくことで、
 
 
もう、八方塞がりで、どうにもならない・・・
打ち手なんて何一つ残ってない・・・
 
と思われるような状況であろとも、
フト、ナイスなアイデアだって
浮かんでくるものです。
 
火事場のクソ力みたいな感じで。
 
 
このナイスなアイデアが浮かぶ
そして実行していくことで、
また新たな自分の側面を知ることに
つながり、さらにステージが上がって、
また新たな問題が湧いてきて・・・苦笑
 
結局、こんなことの繰り返しじゃないですか。
 
 
人生の8割だか9割だかは、
問題解決に費やされているのだから。

待てないから、得られない。

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基本的に人って、せっかちなんです。
 
これをしたら、これが得られる。
ほぼ、確実に・・・
 
そんなことじゃないと、やりたがらないのが、
当然といえば、当然。
 
でも、基本的にはそんなものは、
ほとんどなく、恐らくそんな感覚では、
当然、取り掛かることもせずに、
いつまで経っても変わらない現実に
イライラし続けることになる。
 
そうなると、やっぱり必要なのは、
インパクトのある経験。
 
頭をハンマーでガツーンと殴られるような。
もう、目の前の現実がグレーにしか見えないような
現実感だったり。
 
人って、そのくらいの経験をしないと、
そう簡単には変わることは出来ないのかもしれない。
 
 
でも、そんな予想の範疇を超えるような経験って、
自分で狙って出来るようなことではないし、
(出来れば、避けたいことだからこそ)
予想を超えているのだから、今から予想するのは
ムリなわけで。
 
そう考えると、この部分は、コントロール出来るものではない。
 
来たら来たで、
「あぁ、いよいよ自分にもこれ来たか。」
と受け入れていくしかなく。苦笑
 
 
と、まぁ、何だから湿っぽい、暗い話に感じられて
しまうかもしれないけれど、
 
じゃあ、成果を待つことを
 
ジリジリしながら、
「いつだ?いつだ?」として待つのか、
 
まぁ、「そのうち、くるでしょ」という感覚で
待つのか?
では、心的感覚も全くことなるので。
 
このあたりが異なるのであれば、当然、それに呼応して
現実だって、変わってくるはず。
 
 
この待つという感覚も、
 
来るという確信を持って待つのと、
来るの?来ないの?という感覚で
待つのとでは大きな違いがある。
 
 
ただ、この確信って難しく感じる人も多い。
 
 
この確信って何か?というと、
未来に原因をつくるということ。
 
未来に原因?
 
現在や過去に原因があって、未来が結果ではないの?
と感じる人も多いかもしれない。
 
でも、やっぱり逆なんですよ。
 
未来に原因をつくる
それが確信をつくる。
 
ごくごく簡単な例を挙げると、
 
あなたの自宅から、最寄りの駅にいくとする。
行こうと思った時点では、行ってない、たどり着いていない。
 
だけれど、ごくごく近い、未来にたどり着いているという
確信、これが原因となり、今の時点から見た未来(ついた時点では現在・過去)
である、辿り着いたタイミングが結果となる。
 
 
何か変な話に聞こえますかね?
 
 
のどが渇いて、目の前のペットボトルに手を伸ばす。
これだって、理屈は一緒。
 
他のことだって、全ておんなじだと思うんです。