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世界は逆説で出来ている。

「生きたいように生きる」ため、「生きたいように生きる人を増やす」ためのブログ

生物の機能は、あらかじめ設計されているものなのか?それとも・・・

「コネクティングドッツ」と、「どう在りたいか?」
について、もしかすると、矛盾を感じた人も
いるかもしれない。
 
 
 
基本的には、世の中にあるものは
全て矛盾だらけだと思うし、
その矛盾にあれこれ折り合いをつけて
いくことが生きることでもあると思う。
 
 という、話は置いといて。
 
 
 
生物学者の福岡伸一さんの言葉。
ちょっと長めだけど。
 
 
 
 自然のデザインって非常に精妙に
 できているんですよね。
 
 ぱっと見ると、非常に合理的に設計されている。
 
 だからついつい、その機能はある目的のために
 最適化されているというふうに見えるわけです。
 
 あたかもその機能を実現するために、
 あるデザイナーが最適解を求めたというふうな、
 設計的な思想でものを見るようになるわけです。
 
 
 確かに生物は、ずっとそう解釈されてきたんだけれど、
 実はそういうふうにはつくられていないのです。
 
 ある目的のために機能が準備されていたんじゃなくて、
 まずはいろんな機能が手当たり次第、
 ごちゃごちゃ作り出されたんですよね。
 
 
 急場しのぎその時々で機能を組み合わせて使ってみて、
 たまたま便利だったものが生き残って、現在に至った。
 
 その時間がとてつもなく長いために、
 試行錯誤の期間に失われてしまったものが
 あまりにも多いのです。
 
 結果だけ見ると、非常に合理的に、合目的的に
 デザインされていたように見えますが、
 それは今の時点から過去を振り返って、点と点を
 つないでいるからそう見えるだけです。
 
 
 生物とは決して、ある目的のために機能が
 最適化されて進化してきたわけではありません。
 
 だから、自然界のデザインは設計されたものじゃなくて、
 発生してきたものだというふうに捉えないと
 その特性を見失ってしまうんです。
 
 
 だけどついつい「最初から設計されているものだ」
 というふうに、鳥瞰的な視点から捉えたいという
 人間の思いがあるわけです。
 
 それは仕方がないことなのですが、
 その視点に固執しすぎると、つまらないことになります。
 
 
 生命が持っているある種の動的なものとか、
 柔らかさとか、可変性とか、
 非常に危ういバランスの上に立っているものだ
 といった捉え方が見失われて、
 
 機械やプログラムの設計みたいに
 「最適、効率化、合理性」みたいなもので
 デザインを考えすぎてしまいます。
 
 それは、真実を見ない見方になってしまうんじゃないか
 と思うんですよね。

 

 
 
 
こういう話しって、とても興味深いですよねー。
 
結局、これも人類の長い歴史を振り返って
みたからこそ、設計されているのではないか?
と考えがちだけれど、決してそうではないと。
 
これだけ、精密に出来ている事実を目の当たりにすると、
そう考えたくもなるけど。
 
 
ただ、きっちり設計はされていないとしても、
何らかの大きな方向性というか、
こっちだよなぁというのはあると思う。
 
それは、誰が?何のために?ということは
分からないのだけれど。
 
 
で、ここで冒頭の、
 
「コネクティングドッツ
「どう在りたいか?」
 
 
「コネクティングドッツ」は、現在から過去を
振り返ってみて気づくこと。
 
 
一方、
「どう在りたいか?」は、現在から未来を志向して、
大きな方向性、ベクトルをイメージすること。
 
 
地点としては、同じ現在ではあるのだけれども、
視ている方向が異なる。
 
「どう在りたいか?」は、
大きな枠組み、大きな方向性を
イメージしつつ、そのイメージを
元に日々、あれこれやっていくのだけど、
 
 
あれこれやっていくために作った、
日々のタスクを作るために設計図はつくるけど、
設計図の通りいくわけではなく、
振り返ってみると、実は全く関係ないことが
後々、活きていたということが、往々にしてある。
 
 
うーん、今回は(も?)、どうもまとまらない
内容になってしまったけれど、何かをつかむ
きっかけになって頂ければと。
 
 
 
 

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