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哲学で飯が食えるか?「娯楽」としての哲学から「飯のタネ」としての哲学

哲学で飯が食えるか?
 

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「娯楽」としたら、自分自身はあくまで「享受」する側でしかない。
 
そこからさらに、一歩進めて、娯楽からそれ自体で飯が食える状態にするには
どうしたらよいか?について考えてみる。
 
先にいっておくと、僕自身、哲学について学んだことはないし、
ほぼ【哲学】に関する知識はない。
 
もっというと、【哲学】の意味すらよく分かっていないし、
学問的な意味での哲学には全く興味がない。
分かっていないけど、「多分、哲学ってこういう意味だよね」
 
くらいの感じで、哲学をとらえた上での記事であることをご了承頂きたい。
 
 
 
 
「娯楽」としての哲学から「飯のタネ」としての哲学は、
 
少年が【娯楽】として楽しんでいた野球から、
野球そのもので【飯を食う】ステップにも似ている。
 
小さい頃は、野球そのものが楽しく、【娯楽】として自分の中に存在していた。
*子ども自身に【娯楽】という語彙があるかないかは、別
 
野球そのものを楽しんでいる過程から、大人になったら野球をして
飯が食えるということを知る。
 
 
【娯楽】の延長線上に、さらに【飯が食える状態】にまで持っていく
 
 
 
前にも書いたように、「哲学とは何か?」ということは、よく分からない。
 
わからないけど、小さいころから、
 
・なんで、学校にいかなければならないのか?
・そもそも、学校にいって、友だちと仲良くする必要があるのか?
・なんで、勉強をしなければならないのか?
・勉強して良い成績をとると、褒められるのはなぜか?
・趣味って、暇つぶしみたいなものだよね
 
などなど
ある意味、しょーもないことをつらつらと考えていた。
 
 
 
で、そんなことにうつつを抜かしていたもんだから、
もちろん社会不適合者まっしぐらなわけで。
 
 
普通の人(?)は、そんなしょーもないことをあれこれ考えることをせず、
目の前にあることを淡々とこなしていく。
仕事だったり、勉強だったり、社会生活だったりあれこれを・・・
 
 
でも考えてみると、本当は考えること、直視することが
つらい、嫌だから他のことに目を向けているということも
あるのではないか。
 
僕だって、しょーもないことをあれこれ考えるけど、そんなしょーもないことを
ずーっと考えていたら頭がおかしくなりそうにもなる。
*既に、おかしい??
 
 
 
 
 
で、これまでは「哲学で飯を食う」場合、学問的な哲学を何らかの形で
教えることで飯を食ってきていることが大半だ。
 
何らかの形とは・・・
 
・学校で教える
・カルチャースクールで教える
・書籍を通じて教える(伝える)
 
 
 
「学校」「カルチャースクール」などで教える、【場】があり、
そこに集まってきた人に【伝える・教える】ことが飯のタネになっている。
 
【伝える・教える】ことをもう少しみてみると、それは
 
・知識差
・経験差
 
を教える側から伝えることが、飯のタネになっている。
 
 
【場】について考えてみると、そもそも自分が何かを伝えたいと思った時、
学校やカルチャースクールなどに言って、
 
「教えたい」
といって回る必要があった。
これまでは。
 
 
今はインターネットがある。
 
インターネットに、とにかく
 
・考えていること
・経験
 
何かをガンガン綴っていく。
 
便所の落書き」などと揶揄されようと、構う必要はまったくない。
 
・がんばっていれば、幸せな未来がまっている
・絆ってとても大事
 
などなど・・・
 
そんな耳障りのいいことなど書くことはない。
あなtが日々、感じている本音をドンドンぶつけるべきだ。
 
 
たとえば、「働きたくない」という「哲学」があるとして、
 
・そもそも「働く」って何よ?
・本当に、人は「働く」必要があるの?
・働かなきゃ生きていけないけど、働きたくない人は、どうしたら生きていける?
・オレは、働かずにこうやって、生きてるゼ!
 
ということを、クソ真面目に考えて、実践する。
そして、それをブログなりに活動報告・思考過程などをつらつらと
綴っていく。
 
 
綴っていくと、
「そうそう、分かる」
 
という人が、たまに現れてくる。
 
 
確率でいったら、100人の内、1人2人がなんとなーく
分かるくらいでちょうどいい。
万人受けなど、ハナから狙う必要は全くない。
 
そんなものは、息苦しいだけだ。
息苦しいのは、現実社会だけで十分。
 
 
市井の人の「哲学」は、とても人間臭いので、
自分と同じような境遇であったり、同じような考えを
持った人の話は、腹に落ちやすい。
 
哲学者の話しは、何だか小難しいことばがとても多く、
とっつきにくい。
 
だからこそ、
 

 

 
話を元に戻し、どのように哲学で飯を食うかというと、
あなたが綴ったものに反応してきた人に対して、
 
あなたの知識
あなたの経験
 
をダイレクトに提供してあげればいい。
 
具体的に、どんなものを提供すればいいか?
 
それは、相手にきく。
聞くというよりも、最初は反応があった人と対話をする。
 
対話を通じて、相手が欲しているものとあなたが提供できるものの
折り合いをつけていく。
 
自分が提供したいもの
相手が欲しているもの
 
これらは、往々にして「ズレ」がある。
 
 
あなたの提供したいと思っていたものでも、相手がいらないといえばいらない。
逆に、あなたが不要だと思っていても、相手が欲していたらそれはれっきとした
サービスになる。
 
 
あとは、それに価格をつけて提供をすればいい。
 
 
 
【哲学を飯のタネとして生きる方法を一緒に考えませんか?】