世界は逆説で出来ている。

「生きたいように生きる」ため、「生きたいように生きる人を増やす」ためのブログ

自分の居場所を把握してますか?

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一貫してお伝えしているテーマとして、
 
勝てるべき所で、勝っていますか?
 
勝ち負けというと、ちょっと仰々しいく感じてしまうかもしれませんが、要するに、成果が上げやすいところ、成果を上げやすいパターンでやっていきませんか?ということ。
 
これをなくしては、仮に成果を上げることが出来たとしても、相当な苦労が伴う。
 
どうしても、真面目で勉強熱心な方々は、自分がうまくいかないのは、知識が足りないせいだと思いがちだ。
 
でも、実は知識なんて必要な場面はそう多くはない。
確かに知っていれば、どうにかなることだってたくさんあるけれど、むやみに知識を求めるのではなく、ここでもゴール設定そもそも、自分にとって何が必要な知識ないのか?
 
これがわかるからこそ、知識が生きてくる。
 
これをなくして、単に知識を得ることそものものを目的としていても、いつまでたっても、得たい成果など、当然、得られるわけもなく。
 
 
で、話を戻しますと、つまりあな自身で勝てる場所・土俵をみつけて、そこで楽しくやっていきましょうよ
ということを、再度、お伝えしたいのです。
 
 
勝てる場所・土俵をみつけるとは、あなた自身の強みを発見して活用するということ。
 
 
「 知識が足りない 」ことばかりに目がいってしまうと、何よりも大切な、元々、あなたが持っている強みを、放ったらかしにしたままにななってしまう。
 
強みの活用を考えていないので、いつまでたっても、足りないことばかりに、焦点がいってしまって、
 
足りない
足りない
 
がいつまでも、続いてしまう。
*とはいえ、知識は全くいらないと言っているわけでは、ありませんよ。
 
 
当然ながら、そもそもどんな成果を得たいのか?(ゴール設定)は大前提で、これについても、一貫してお伝えしていることではあるけれど、
 
 
 
得たい成果(ゴール)
強み
 
との交点を見つけるという話をよくしている。
 
これは、いわば両輪で、両方がうまく噛み合うからこそ、うまくいく。
 
どちらから一方、たとえばゴールは明確になったけれど、全く強みと関係のないことをしたら、苦労するだろうし、
 
逆に強みは発見したけれど、ゴールが明確になっていないと、そもそも発見した強みをどこに向けて、活用していけばよいか皆目、検討がつかなくなってしまう。
 
 
 

 

「変わりたい!」では、変われない?

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不思議なもので、変化するぞ!と力が入っていたりすると、
全然、変化出来ないのに、
 
力が抜けたり、執着がなくなると、
気づいたらいつの間にか変化に気づく。
 
 
 
執着しろ!
執着なんか捨てろ!
 
どちらも、耳にしたことはあるとは思うけれど、 どっちも正しいと思っていて、その瞬間、瞬間をみたら、当然、「執着」という面から考えたら、執着をしているかしていないかのどちらかしかなくて。
 
そうではなく、めちゃくちゃ執着する期間もあれ、執着して執着して、執着しすぎてつかれて、忘れたころに、また思い出したら、いつの間にかいい具合に執着が外れて、実現している。
 
 
で、この絶賛執着期間中には、とことん執着をしてみる。
これが、焦点があるところが、拡大するともいえて。
 
とりあえずは、執着をして執着をして、ぼやっとした焦点を絞りまくってみる。
 
まず、その期間がないことには、ぼやっとしたま、曖昧なままなので、行き先が決まっていないから、行けない。
これが、北海道理論
 
結果は、想いの総量
 
というコトバがあるけれど、結局、執着しまくった総量で、できるか出来ないかは決まってくる。
 
 
逆に、大した執着もなく、ただなんとなくであれば、なんとなくの成果だし、執着をしまくれば、執着しまくっただけの成果。
 
 
そう考えると、非常にシンプルであって、本心で得たいかどうか?結局、それ次第でしかなくそれがなく勝手に自分で得たいと思う想いが少なければ、その程度でしかないだけ。
 
 
で、現状維持の壁は想像以上にに厚い壁なので、それを動かしたり、ぶっ壊したりするのはやっぱり執着。
 
でも、これも散々執着して挙句、スムーズにいくかというと、「そんなことではなく、とにかく執着してみて、それでも厚い壁はびくともしなくて、でも執着して、、、
 
とやっているうちに、もう執着するのも疲れが、諦めかけて、もうちょっとやった先に、壁が動いたりする。
 
え?そこまでやらなきゃらないの??
 
と感じたようであれば、まだやろうとしているコト自体、得たいものではない証拠とも言える。
 
本心で得たければ、執着するはずだし、そもそも執着もせず、すぐに忘れ去ってしまうようなことは、その程度のこととも言える。
 
 
だからこそ、一見、遠回りにみえても、執着できることをみつけて、執着しが方が、精神衛生上もいいし、成果だって上げやすい。
 
 
 

 

「何を?」「どうやって?」を追求しないからこそ、

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どうしても、
 
「何を?」
「どうやって?」
 
にばかり気を取られて、気を取られているから、結局、
 
何をしたらよいか?
どうやってやっていけばよいか?
という現実が、目の前にあらわれて、さらにこれらが強化されるだけ。
 
強化されるとは、結局、内面が現実に反映されて、さらに、「何を?」「どうやって?」ばかりに、向き合わざるを得なくなる。
 
 
だからこそ、
 
「在り方」「状態」を先に決める。
つまり、感情の先取り。
 
だから、それに呼応して、現実が追いついてくる。
 
「在り方」「状態」を先に決める、感情の先取りをすることで、
 
「何を?」
「どうやって?」
 
に振り回されなくなる。
 
 
「何を?」
「どうやって?」
 
を考えないで、どうやっていくのか?と感じている人も多いと思うけれど、「だらかこそ」逆から考える。
 
これは、
「何を?」
「どうやって?」
に限った話ではなく、あらゆることにも言えて。
 
どんな状況にあろうとも→だからこそ
出来ない理由ばかりに目がいっても→だからこそ
 
 
世の中は、「だからこそ」で埋めていく。
そうそう、「だからこそ!」といえる人から、楽に生きることができると思う。
 

理解から入るから、いつまでも動けない。

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理解できるから、やる。
理解できないから、やらない。
 
少なくとも、このスタンスでいる限りいつまでたっても、理解できる枠内に収まることになる。
 
基本的に人は理解できる範囲のことしか把握ができず、当然ながら、でも理解できていない方の部分のが大きく、むしろ理解できずに放置されていた部分にこそ、あなたのブレイクスルーポイントが隠れている。
 
怖い
不安
うさんくさい(笑)
あやしい(爆)
 
なんでも構わないけれど、理解できないという理由でやらないという選択をする事もできるし、理解できないけれど、取り合えっずやってみるという選択もできるはず。
 
 
どちらが枠を外していくことができるか?というと当然、後者。
 
だって、自分の(これまでの)認知の範囲を捉えようとしているから。
行動を伴って。
 
 
腹に落ちる感覚を感じてから、動くということも選択できるかもしれないけれど、それだと腹落ちするまで、自分の認知の範囲がひろがるのを待つ必要が出てくる。
 
理解を待っていると、その分、時間がかかるし、理解できない自分に苛立ち、
「やっぱり自分には無理」という感情だってわいてくる。
 
もっというと、腹に落ちたからといって、人は動けるとも限らない。
 
容易に認知の範囲を超える事を選択できる人であれば、枠を外すことに対してのストレスはすでに感じていないはず。
だからこそ、枠から外れた成果を得ることが出来るとも言える。(思い込みを外すも同義)
 
 
ここを頭の理解の範囲でだけ捉えていると、ずっとあなたの理解の範囲内でしか、成果を得ることが出来ない。
だからこそ、飛ばす。
 
飛ばすと、理解の範囲外を少なくともイメージする必要がある。
理解できないと思ったことであろうとも、理解ができる様になって、理解ができるようとうことは、体も自然に反応する。
 
理解を優先するから、体が動かないとも言える。
 
理解を越えたところを感じ取って、これまでとは異なった成果を得たいならば、自ら意識的に理解の範囲を越えていくことで自分自身の枠を越えて思い込みをどんどん外していくことができるようになる。
 
 
そもそも、何のために枠を広げて行く必要があるのか?
というと、当然、あなたの可能性を広げていくためにほかならない。
 
狭い範囲内での理解・ジャッジをしているからこそ、相応の成果であって、理解・ジャッジを広げれば相応の成果を得ることができる。
当然ながら。
 
 
現在・過去を一切無視したゴール設定を!と常々いっていることにも、もちろんつながっている。
 
 

 

私、これでいいんでしょうか?

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「 私、これでいいんでしょうか? 」
 
というご質問を、結構な頻度で受ける。
 
この、「これでいいんでしょうか?」の質問の裏には、「正しさを求めている」欲求があるのではないか。
 
正しさを求めているのって、当然だと感じているあなた。
もしかすると、「正しさ病」にかかっているかもしれません。
 
「正しさ病」とは、判断基準が文字とおり「正しいか?正しくないか?」を基準としている病。
ま、僕が勝手に病といっているだけで、「そんなもん、病なんかじゃない!」と感じている方は、もちろんOKだけれど、判断基準を「正しいかどうか?」だけの尺度ではかってよいものか。
 
 
「正しさの基準」を他者に求めて、場合によっては依存だし、場合によっては責任転嫁にもなりかねない。
 
 
「これでいいんでしょうか?」
なんて聞く前に、自分の勘や感覚を信じて、ゴリゴリと進めてみればいいのに。
 
正しいこたえらしきものが、あらかじめあって、そのこたえに到達するにも、それなりの手順があって、それに沿っていけば大丈夫・・・
 
そもそも、そんなんで通用するのは学校のお勉強まで。
未だにお勉強の感覚を引きずっているので、「これでいいんでしょうか?」が出て来る。
 
 
 
自分は
ダメだ
自己肯定感が低い
 
などの理由で、他者からの承認、他者からも正しいねという承認を得たいがために、自己犠牲をしながら、正しさを追求しているのかもしれない。
なので、正しさ病は、自己犠牲の上に成り立っている事がほとんど。
自分を押し殺し、他者の目ばかりを気にしてる。
 
正しさは、他人からの評価基準だけに、自分の物差しを持ち合わせておらず、わけがわからない状態。
 
一方、正しさ病にかかっていない、好き勝手に生きている人たちは、自分がやりたいかやりたいくないか?が判断基準であって、でもそんな自分勝手なことをやっていて、どうなるのか?という考えもあるかもしれないけれど、そんな人たちは、好き勝手にやっているから、やりたいことをやっているうちに、いつのまにか突き抜けていく。
 
突き抜けてしまえば、周りが放っておくわけがない。

 

「有意義」に振り回されて、有意義ではなくなる。

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有意義
 
と勝手に勘違いしているだけで、単にバタバタ忙しい(感じ・フリ)をしているだけで、全然、有意義ではなかったり。
 
 
じゃあ、自分にとっての有意義って何か?
 
当然、世間一般的だったり、人の尺度の有意義などでは決してなく。
 
 
また、そもそも有意義でなければならないことって、あるのか?
別に、有意義っぽくなくたって、ぼーっとしてたら、ダラダラしてたりすることだって、あったっていいのでは?
 
ぼーっと、ダラダラから、自分にとって本当の有意義がみつかったり。
 
 
有意義でなければならない
そんな発想からは、
 
何か(有意義なこと)やらなければ
という焦りが生まれて、そんな焦りから自分を見失って、何をしたら良いかわからない。。。
 
そんな悪循環に陥ってしまっては、本末転倒だ。
 
 
有意義でなければ、ならない。
 
など、有意義に限らずとも、「~ねばならない」発想のほとんどは、単なる思い込みでしかない。
 
 
自分にとっての有意義とは?
 
 

やっていることは、NOだけれど(YESでもない)、状態はYES

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何をするにも、その状態を得たい、
感覚や感情を得たいわけですよね?
 
であれば、そこにフォーカスが合ったほうがいいと思うのです。
 
たとえていうならば、山登り。
 
山頂に到着することが、ゴールだとした場合、ゴールに辿り着くルート、方法って色々とあるわけですよね?
 
 
安全なAルート
危険なBルート
 
はたまた、ヘリコプターで山頂へも行ける。
 
どれでも、いいわけですよね?山頂に到達することがゴールなので。
自分で選べば。
 
 
なので、何をやるか?って全くどーでもよくって、
状態が優先なんです。
 
だから、いつも言っている、「どう在るか?」これって正に状態のことで。
さらに、何をするか?ってホント、どれでも良いんです。
何を、やり方なんて、いくらでもあるわけなんで。
 
 
僕が諸々やっていることも、それ自体がやりたいことであるというより、先に得たい状態(理想とするライフスタイル)がまずあって、その状態になるために、適した方法や手段を選択していったというだけ。
 
「何をしているのですか?」
「何で稼いでいるのですか?」
 
という質問を、もの凄く頂くのだけれど(苦笑)、いつも答えるのは、理想の状態を決めて、それに合った方法を選択しているだけです。
 
とこたえてます。
 
だって、同じ稼ぎ方があったとしても、人それぞれ、細かくみればみるほど、人によって異なってくるわけですよね?
異なっていることの源泉は何か?
 
人それぞれの価値観や、理想とするものが、反映されていると思うのです。
もちろん、何も考えていなくて、ただ流されるままであれば、流されるままで反映されているだけ。
 
 
あなたも、僕も、あの人も、この人も、理想の状態なんか、みんな異なるんだから、それぞれ決めて、それに適したことを選択していけばいいでしょ?というとてもシンプルな話。
 
 
 
もちろん、強烈に何かやりたいことがあれば、やればいいとは思うけれど、そうでない人の方が多いんです。
 
でも、小さい頃からやりたいことを強烈に持って、それを諦めずに実現するみたいな美談が多すぎて、やりたいことがない自分は、だめな自分みたな捉え方をしてしまう。
 
やっぱり、そーじゃない。
 
やりたいことがないとダメ!
そんなことは、全くなく。
 
なきゃないで、いいじゃないですか。
無理やり決めずとも。
 
 
 
やりたいことなどなくても、
こんな状態(ライフスタイル)だったら、いいのになぁ
 
というのは、あるはず。
 
 
であれば、状態を決めるんです。
先に。
 
で、状態を決めたら、あとはやり方なんて、いくらでもあるんで、必要なことを色んなところから引っ張り出して、継ぎ接ぎしていけばいいじゃないですか。
 
言っているコト自体、それほど難しいことは言っているとは思わないです。
 
状態が決まってしまえば、やらないことって当然、決まってくるし、やることだって決まってくる。
 
 
どの山に登るのか?(理想の状態)も決まっていないのに、
 
どのルート?を一生懸命考えても出て来なくて当たり前。
 
逆に、 どの山に登るのか?(理想の状態)さえ決まれば、じゃあ
 
どのルート?って自ずと決まってくる。
 
 
 
とはいえ、この決めるということそものもの、そしてそれを実際にやっていく上で、何よりも大切なこと。
 
それは、自信。
つまり、いかに自分を信じ込んでいくことができるか?